「ゆれる」

2週間前くらいに観ようと思ったら、新宿武蔵野館は激混み。小さな作品なのであまり知られていないだろう、などとバカなことを思っていたのでびっくり。

2度ふられたあと、やっと観た。・・・ピエール瀧、太り過ぎっ!! んなこたぁどうでもいい?

いやいや、いい映画でした、ほんとに。こういう、ある意味現実的な作品だとは思ってませんでしたけど。もっと幻想的なというか、ひんやりとしたどこかのある場所で、みたいな話かと思っていたのだが、裁判が延々続いたり。地味っちゃあ地味。そして飽きさせない。そこが凄み。

息を詰めるようにして観ていたのは、猛の、というかオダギリジョーの衣装。これがもう細かいところまであらゆる神経が行き届いていて、素晴らしい。赤いパンツに、黒を少しまぜたような赤というかワインの皮のジャケット、紺色のインナー、しかも裾の切り返しが腰回りにまとわりつく加減が絶妙。そして髪の一房も赤。パンツはGになったり。インナーは白の女子が着るようなニットの袖にピコットのごときループつき、とか、スタジオで撮影中のクマみたいな茶ボアのアシンメトリーなセーターとか・・・。ま、そのときどきの彼の心境をつぶさに表しつつ、飽くまでもさりげさを失わず、品よくセンスよく美しく。ああ、着るものって大事。きっとこれはオダギリジョーが監督と相談しつつ"こういうの、どうでしょう"と自分のセンスで選んできたものに違いない。そうとしか思えない皮膚感覚。服って生きてるのね、と思わせる着こなしっぷり。愛が見えますもの、そこに。慈しむ丁寧さが見えますもの。それはひとえに自分への愛の深さだったりもするのでしょう。

もうひとつ息を詰めるようにして観ていたのは、ま、当然のことながら、この兄弟の間にあるそのときどきの空気感。うーむ。これは監督の成せる技なのか、俳優の演ずる力なのか、3人の息の合い方が尋常ではないのか。。。
最近、映像はやはり監督のものだなと再認識するケースが多かったのですが、そしてこの映画もそうだとは思うのだが(何をもってしてOKとし、どこまでのものを要求し、それを俳優やスタッフや自然現象からどこまで引っ張り出すことができ、どこまで具象化できるかなどは監督の仕事)、たとえば留置所での接見のときにふたりの間にのしーっと生まれてくる緊迫した膨張する空気感みたいなものは、二人の俳優の"形"からだけでは生まれないものだと思う。そこに俳優の発する生なものが加わらなければ、いくら画角や音や背景の色や台詞や間合いや姿勢や目つきや髪型や音楽や衣装や照明を揃えても、膨らんでいく感じまでは出ないだろう。

だから飽きさせない。眠気を誘わない。息を詰めて、ずっと目の前に表れる"場"を見続ける。体ごとで感じる。呼吸する。

いいなー、映画って。映画監督ってすばらしい。俳優も、自分の美的センスをもっていることも、すばらしい。それが揺らいでも揺らがないところが素晴らしい。

親子喧嘩。兄弟。日向と日陰。やっかみとひがみ。田舎と都会。田舎でのいづらさと都会でのいづらさ。違和感。親和感。そんなことが、地味に丁寧に色彩を抑えて描かれる。泣き叫んだりは、ほとんどしない。家族の話。家族を親戚を兄を通して見つける自分の話。それを許す兄。そんな地味で普遍的な話。それをいかに描くか。この監督の凄みは、いわゆる自分の"文体"をもってることだと思う。だって映画が呼吸していたもの。息をのんだり、安堵したりしていた、映画自体が。音楽の選び方も非常に秀逸。

「アリス・イン・タイドランド」は、テリー・ギリアムのファンタジーとエグさを堪能した。
「パイレーツ・オブ・カリビアン2」は、「ーー1」のときと同様、途中で気持ち良〜く居眠りした。
最近、観た映画で心揺れたのは、リバイバルの「ふたりのベロニカ」では寂しいなと思っていた矢先のよき作品。

例のごとく、飯田橋ギンレイホールで「リトル・イタリーの恋」の兄弟すれ違い恋物語的兄と弟物語を観た直後だったので、最初はおやまあと思ったのだが、そんなに甘くもユルくもなかったわ。(ちなみにギンレイホール併映の「クラッシュ」は展開をまざまざと思い出せるほど鮮明に覚えている映画だったにも関わらず、同じところで驚き泣き、心揺れた。我ながら単純。でもなー、あの妖精のマントとか、どうしたって衝かれちゃう。アホアホなマット・ディロンのくだりとかねー)

香川照之は、こういう役、多いですな。達者だからこそ、なのでしょうが、どうしてそうモテない役とか、気持ち悪がられる役とか、泣きの入る役とか、すべてをゆるす役とか、・・・って、それらがひとつの役だったりするんだけど、そういうのが多いかね。ま、あの顔がまた極悪人にも善人にも見えますからね。裏のある目というか、読み切られない目というか、感情を映し、映さない目というか。きっと、恐ろしい人に違いない。

ただひとつ残念な発見だったのは、オダギリジョーの黒目は横から見ると薄いってこと。・・・なんてマニアックな。でもそうだったのだ。もうちっと奥行きがあってもよかろうものを。(これは実体としての黒目の厚みのことです。目の色の奥行きとは別の話、為念)

おまけ。親子3人で夕飯を食べるキッチンのテーブルを始めとする実家のセットは、少し小さめに作られていたような気がする。そのせいでオダギリジョーが大きく見えるような。監督の愛がこんなところにも。(・・・って、セットじゃなく実際の昔の家使用かもしれませんがね)