「まわり道」

ヴィム・ヴェンダースの「まわり道」を吉祥寺のバウスシアターで観る。ロードムービー3部作のうち「都会のアリス」しか観ていない自称ヴェンダース・ファンとしては、ここで見逃すわけにはいかない。
フィルムがかなり劣化していたものの、のっけから不安定なおなじみの音、リズム、窓から流れていく景色・・・うううううう、うなる。ヴェンダースだ!
広場を眺めている男が、なんだっけ、あの歌・・・曲名を思い出せないが、のレコードをリプレイし続け、眉ひとつ動かさず、窓を突き破る。拳で。
"話したいことがないなら、話さなくていい。話したいことができたときに、話せばいい"。なんと心休まることば。もしいつでも関心を払ってくれ、耳をすませてくれている人がそばにいるならば。
雨が降っている。赤い屋根。運河。灰色の空。それでも"過ごしやすい気候"だと言う。伝わってくるのは、肌寒いというより、冷たく悲しい空気。列車は走り出し、窓の外の景色が流れていく。だから私はヴェンダースジャームッシュが好きなんだろうなと思う。ただ流れていく景色を眺めていることに、まったくもって飽きない。近づく線路、走る列車の音、近づき離れ流れるように線路の上を走る向こうの列車、窓から顔を出している女。

"書きたいのに書けない、書きたいことはあるのに、まだ書けない。人間嫌いじゃしょうがないのか"

ヴェンダースの少女の好みはよい。女の好みはいかがなものかと思うこともある。(唯一の例外のナスターシャ・キンスキーは素晴らしい!!)

旅をしながら旅の仲間がふえ、藁しべ長者とかハメルーンの笛吹きのようにぞろぞろと増えた仲間と歩いていく。ボンの町を。車に乗ってたどりついた、山の中を。コリコリ太った詩人になりたい男が叔父の別荘と思っていた家は別人の屋敷だが、屋敷の主人は宿を提供してくれる。最後の晩餐、最後の会話、最後の朝食。・・・ドイツという国の孤独について、主人は語る。不安を隠しているドイツという国限定の孤独について、主人は語る。70年代、ドイツはまだ生々しく戦争が記憶にならないまま生きている。やがて明かされるゲシュタポだった老人の過去も。

森から街へ。灰色で、コンクリートのおもしろみもなく生きている感じもしないただひたすらに合理的であることを目ざしたような集合住宅がもくもくと立ち並ぶぞっとするような町並み。不穏。息をこらえている。自分に対する懲らしめのように、彩りのまったくない拷問のような集合住宅の集まり。さきほどまでの湿度のあるひんやりとした樹木の空気は微塵もなく、精気のない人工的な嘘臭いよどみに息が苦しくなる。

主人は死んだ。望み通り死んだ。
旅の道連れはばらけていく。
老人の過去をゆるさないヴィルヘルム。どんどん孤独の中に引きこもっていく。
女にも感情を与えない。老人を追い払い、少女から奪う。

旅に出て、さらに行き詰まっている。・・・なんという不安。映画が始まったときには、てっきり冒頭で提示された"書けない作家のもがき"の果てに脱出口の光が見えるまでが描かれるのかと思っていたが、そんなに甘くはない。重苦しい。閉塞感。ドイツの閉塞感。

人間嫌いが人と触れ、種々雑多な人が流れ、景色が流れ、その中に身を置いているうちに・・・なんてことはないのか。ないのか。ないか。。。けれどもいつか。やがて。けれどもこれはドイツ人によるドイツの話だ。歴史的なこと、政治的なことも含めて。それをそのまま受け取ったほうがいい。これはドイツ人によるドイツの話だ。ドイツの孤独、ドイツの閉塞感だ。それを日本人の私が見て、行ったことのない国の友だちもいない国の話をそのまま受け止める。違い、をそのまま受け止める。違いは違いのまま受け止めたい。