まいるわけ

数年前くらいから、薄々気づいてたのだが、私は
骨格至上主義者なのかもしれない。

たとえば、この間、ある作家がテレビで
話しているのを見た。
その作家の作品は、一度だけ文庫で読んだ。
その作家の作品が原作の映画は、観に行ったら
予想以上に面白くて、かなり楽しんだ。

それくらいの関心しかなかったわけですが、
しゃべっている作家をみるのは初めてだったので、
割とじっくりとみた。

話している内容は作家なだけにそれなりに面白いのだが、
途中から、私は喋り方が気になりだした。
変なイントネーションというのか、方言ではなく、
妙なクセをつけて語尾を伸ばしたり上げ下げしたりする。
ふと口元を見ると・・・あー!!
歯並びが、すごいっ。

生える予定でいる歯に必要な面積と、顎の設計図が
どこかでずいぶんと食い違っちゃったんでしょうね。
かわいらしい小さな口の向こうで、歯が窮屈そうに、
前後前後している。

この人とは、たぶん何があってもつきあえないなと
思った瞬間でした。
別に、その作家は私など知りもしないし、何かの
縁でお目にかかったとしても、あちらこそNO!!!
でしょうけれど。

そんなわけで。

額のありよう。
鼻の稜線。
歯並び。
歯の形。
顎のライン。
首と肩の関係。
背中。
背中。
背中。
手。
手首のぐりぐり。
指。
爪の形。
膝小僧。
向こう脛。
足首。
アキレス腱とくるぶしの関係。

大切なのは、骨格なのだ。
その上についている肉の造形は、
無視はしないが、そんなに重視もしない。

表情のある筋肉に限っては、プラス評価。
だけどぱんぱんした筋肉のための筋肉は、大マイナス。
よぶんなお肉は、大目にみる。
過剰な脂肪は、差し引きするのに苦労するので、
これも大マイナス。
何にしろ、私は"過剰なもの"は苦手なのだ。

そんなことは、どうでもいい。

全ては骨格の問題だったのか!!に戻る。

もし私がレントゲン技師になっていたら、
毎日幸せなのか、不幸せなのか。
骨の美しい人は、どれくらいの割合でいるのだろう。

骨一本一本の美しさと、それらが集まって形成する
骨格の美しさとは、比例するものなのだろうか。

骨格の美しさと、肉がついた上での、好みは別とした
一般的な美醜は必ずしも一致しないと私は思って
いるのだが、それは合っているのかどうか。

たとえば、例は古いが私はジミー大西と稲垣吾郎の骨格は
似ていると思う。もしも私が優れた美容整形外科医なら、
どちらの顔であれ、もう一方の顔と瓜二つに整形できる
と思うが、果たしてどうか。

アスリートが美しいのは、不必要な肉がないぶん、
その恵まれた骨格の美しさがより鮮明に見えるから
という何のヒネリもない私の洞察は、正解か。

大病院でものすごい数のレントゲン写真を
撮ってきた技師に、話をきいてみたいな。
あ、外科医でもいいのかな。
形成外科医なんて、もっといいのかな?

このようにして、もしかすると人はフェティシズム
というものにハマッていくのかもしれないと思いつつ、
ってことは自分以外、誰もこんな話には興味が
ないであろうことはわかっていつつも、更に続けると、
ひとことで言えば、私が好きなのは"清潔な骨格"
なのだと思う。

ひとことで言った割にはずいぶんと抽象的だが、
その"清潔な骨格"が血や肉に包まれ、
その多くは目に触れず、
手で触ってもわかるものとわからないものがあり、
それ自体は温もりを持っていない。
そして全貌を明らかにするときには、その生命を終えている。

儚くて、強い。
高潔な意志のようなものを感じる。
持ち主の目には、一生、触れることはない。
寡黙だ。(当たり前だ。でも肉は骨より饒舌っぽいでしょ?)

だから私は、"清潔な骨格"に気づいたとき、
とんでもなく魅かれて参っちゃうのだろうか。
官能的な凄みや美しさに為す術もなく、
ただただ、ため息をついちゃうのだろうか。

清潔な骨格。
そうか。
そうだったのか・・・!