「山猫」byヴィスコンティ

先日の、しばしの甘やかで透明な眠りの贈り物を
用意してくれていたヴィスコンティ監督の寛大さ
への感謝の念で(ホンマか!?)、もういちど、
早稲田松竹に足を運ぶ。

「山猫」・・・乾いた風、砂埃、黄色く焦げる太陽。
数々の燭台、必ずどこかに白を配した身体にぴたりと
沿った衣服、顎のあげぐあい、欲望の抑制、寛容と威厳。

真っ直ぐな姿勢、張った肩、優美なアキレス腱。

後の世に生まれた者としては、どこの国であれ、
貴族のいた時代が、それがどれほど悪政下のもので
あったとしても、私には必要不可欠なものだと改めて思う。

同時代に生きるとしたら、それはもう絶対的に
貴族のひとりとして生まれなければ耐えられないけれど。
だから後の世の現代に生まれて、良かったのかもしれないけれど。

とにかく、美しいものは、美しい。
それは無駄な時間と豊潤な空間と、生活などという飽き飽きした
ものを彩るためのささいな何かをするためにさえうんざりする
ほどの人手や犠牲を払い、贅を尽くしに尽くした果ての果てに、
ぽろりと産み落とされるものなのではないかと思う。

その長い年月の間に、主体である人間の姿勢は直線となり、
顎の角度が決まり、感情すべてを表すことなく、ある種、
無欲となる。

彼らの滅びた後には、絵画があり、音楽があり、金細工があり、
彫刻があり、詩歌がある。
美を愛する者が、彼らをむさぼる。
美の使者は、こと美に関しては貪欲で、いくらでも彼らをむさぼる。
むさぼられることに、彼らはほぼ抵抗しない。
なぜなら、彼らはむさぼられる存在であることを自認しているから。
形式を重んじるのも、そのため。
美しい姿を保とうとするのも、そのため。
姿のよいもののほうが、むさぼられやすい。

衣服は大事。
姿勢は大事。
諦めの甘露は、最後までとっておくとしようか。