猫、部屋

上記の「ヨコハマメリー」という映画に、元次郎(がんじろう)というシャンソン歌手が出てくる。戦後、台湾から母と幼い妹と引揚げてきた少年は、歌手になることを夢見て上京、あれやこれやがあったらしく現在は横浜でシャンソンバーを経営、ソフトなゲイ、小奇麗なマンションでアメリカンショートヘアと同居中、みたいな人で、"ハマのメリーさん"と呼ばれた老女の数少ない友だちでもある。
このドキュメントフィルム、5年かけて撮られたらしいが、映画の冒頭、献辞として元次郎ふくめ3名の名をあげ、亡くなった旨が示される。
映画を観る前で、ハッとする一方、誰のことかもわからず、"ハマのメリーさん"という人は高齢のようだからその関係者も高齢だったのだろうと思って最初の行に出てきた元次郎の名だけは覚えておいた。
映画が始まり、すぐに元次郎さんは末期ガンを患っていることが示される。が、この人、非常に元気なのだ。めちゃくちゃ熱心に紅筆で唇の輪郭をとり、化粧のしあげをして鏡前で総チェックをし、自身の店の舞台へ向かう。歌う。よくしゃべる。よく笑う。出かける。よく歩く。よくもの思う。部屋の掃除をさっさとし、おそらく気に入ったものばかりを手元に残している感じの部屋で猫を抱く。
この映画が上映されているいま現在、この人はもう亡くなっているのだ。そう思うと、この生きている部屋はどうなったのだろう、まだ小猫の面影を残している猫はいまどこにいるのだろう、あれやこれやの間に貯めたお金で開いたのであろうシャンソンバーはもう消えてしまったのだろうか・・・と哀しみというより不思議な感じが強い。
生きることと生きていること、死んでいくことと死ぬことと。
常にそれは並行して在る。常にそれは淡く儚い。
だからこそ、人と関わって生きていく? 自分の記憶に、人の記憶に。実はそれがすべて? 生きることは記憶すること、されること? すべては記憶?
思い出の品、というものも、そこにまつわる共有の記憶があってこそ。写真も、ことばも、くせや行動、匂いなんかも。
だから人と関わって生きていく? もし人とあまり関われなかったら? それは生きてないってこと? 
ふーむ。