「TAKESHIS'」(by北野武)

観なければ語れない、観てからでは語れない、みたいな(ちょっと違うな)あおり文句が予告編で流れていた北野武監督の最新作「TAKESHIS’」。確かに(というのかな?)本編より予告編のほうがわかりにくくつくってある。そこがミソなのかな。わかんないんだろうなぁ、寝ちゃったらヤだなぁと心配させて心構えもさせておいて、観てみれば、そんな心配はまったく必要なし、っていう寸法? 実際にはイメージの羅列なんかじゃないわけだし。でもあの予告編では、人はよべないだろうなぁ。間違いなくデートでなんか観たくないもの。誰かといっしょに観に行くっていうのも避けたい感じだもの。ま、もともと北野武監督の映画は、ひとりでこっそり観ておく、っていうのがいい感じな気がしますけど。

で、その映画。私は好き。人にはお勧めのしようがないけど、私は好きだな。哀しくて静かで切なくて優しくて冷たくて暗くて眩しくて蒼くて空虚で猥雑で諦めていて握りしめていて、せつせつと伝わってくる。それはたとえば、単純に"ああこの人は死にたいんだな"っていうことだとか、生きてることと死んでることのわずかばかりの間を行き来してる感じだとか、芸を身につけた人、芸人に対しては売れていようがいまいがどうしようもなく愛おしさを感じちゃうんだなとか、そのバカさ加減や一生を棒にふっているのかもしれない底知れない不安感や開き直りのたちの悪さとかそれも含めたかわいさとか、一旦、名が売れたり知れたりしたら途端にむしっていく人々やら去っていく人々やら自分は特に何も変わっていないのに勝手に変わっていく環境や実は何より自分だって変わっていってるってことや苛立ちや安堵や悲しみや、いやってほど目に見えることも形にならないことも伝えようのないことも、もうもうもういろんなことがさまざまな音や色や気配や静けさになって映しだされていく。
自分の足下を見失うほど怖くて不安なことはないから、しっかりと足下を見つめて、それがいくら変わっていったとしても、いくら人がもう違うんだよと繰り返し言ってきても、しっかりと自分の足下を見つめて覚えておいて見失わないようにしておかないと、最後の糸が切れちゃうんだよ。ただ、その足下に見えるものは、愛着があるしかなり優しい気持ちにもなるしひとはだ脱ぎたくなりもするけれど、それは所詮、"所詮"という言われ方をする程度のものであって、自分も含めてまったくもってたいしたことがないってことが安心でもあるし悲しくもある。だからどれだけ胸を張ったって、その背中は少しばかり丸まっている。目を凝らせば、斜めにかしいでるのがよくわかる。
そんな映画。

映画監督って、あるクオリティのものを撮っていると、こういうものを撮りたくなるものなのだろうか。よくわからないけれど、無理して使ってみることばだけど、"メタ・フィクション"みたいな感じのもの? 現実と映画の中の世界と、映画の中の現実の世界と映画の中の寝ている間にみる夢や妄想や白日夢の境目を入り乱れさせ、自分が現実の世界の現実としてそれまでつくってきたものを自分でパロディ化するような作品。「81/2」では人生は祭りだ!だったけど、「TAKESHIS’」ではいつまで生きていくのかな、かな。生きていかなきゃでも生きていられるでもなく、生きていくのかな。
死ねばすべてが無に帰す。なのにいつまで生きていくのかな。死ねばすべてが無に帰す。だから生きているのかな。生きていれば何かある? 死ねばすべて無に帰す。死ねばすべて無に帰す? 死ねば本当にすべてが無にちゃんと帰す? 死ねばすべてが無に帰すから生きていられる。それが約束、約束、希望・・・。消えること、消えること、残すこと? 消えること。


まったく関係ないけれど、タイトルバックでTAKESHIS’という文字が風のない水面か鏡面に映ってる感じで、それぞれの文字の足下から逆に文字が伸びているのだが、KやHやIは、逆さに映っても同じだった。ってことに気づいて、はっと、KEIKОだと全文字同じじゃん!とちょっと興奮したのだった。